2017年1月13日金曜日

旅その2 リフタ 記憶を奪われた村 ―ナクバとは? 


時の政権が仕掛ける不都合な歴史を封印しようとする試み。国は、人の記憶を消すことができるのでしょうか? その問いに物言わぬ疑問符をつきつけているのが、リフタです。

エルサレムの街を北西に抜けてまもなくの場所に残る、破壊されたアラブ人の村の跡。ごつごつした石ころだらけの急な坂道の入り口に立つと山の斜面に点在する石造りの家の残骸が見渡せます。石で囲まれた平たい区画は、段々畑の跡。聖書の時代にまでさかのぼると村の歴史に亀裂がはいったのは、1947年末から1948年にかけてのことでした。

「ナクバ(大災厄)」とパレスチナ人(パレスチナ・アラブ人)が悲嘆を込めて呼び、多くのイスラエル人が「イスラエル独立戦争」と誇らしげに呼ぶ戦争、日本では「第1次中東戦争」と呼ばれるこの出来事が先祖から子孫へと受け継がれていくはずだった時の流れを停めたのです。





運命の日 1947年12月28日


1947年12月28日、村人を震え上がらせるテロ事件が起きた頃、村の人口は、2500人を超えていました。男の子と女の子用に小学校がひとつずつ、コーヒーハウスも2軒ありました。いまでは村の水源だった目の形をした泉、54軒の壊れた建物が活気を呈していた村の暮らしのわずかな名残です。モスクは祈る人を失い、オリーブ油作業場跡には村に植えられていた1500本以上のオリーブの実をしぼるため、英国から取り寄せた搾油機の破片が、無造作に棄てられた空缶などのゴミに埋もれています。

坂道を降りていくと、サボテンやいちじくの樹が現れ、岩陰ではとかげが走ります。

民族浄化が動き出した
その日、リフタで起きた出来事については、イアン・パペ の力作 The Ethnic Cleansing of Palestine (『パレスチナの民族浄化』)にも登場しています。イスラエル建国をめぐる国際政治史を専門とするパペは、イスラエルの「愛国者」たちから「裏切り者」「非国民」とそしられながらも、イスラエルの手で行われてきたパレスチナ社会破壊の歴史と現在を実証的に点検し、誰にでも読みやすい著作にして世に問うている勇敢な学者です。

パペの本を読むと、リフタの村人が体験した事件が、イスラエル建国の冷徹な歩みの中に組み込まれていくようすがよくわかります。「D(ダーレット)計画」―1948年3月10日、寒い水曜日の午後、テルアビブでシオニストの軍事部門「ハガナ」の本部「赤い家」に、シオニスト指導者とユダヤ人の若き将校たち11人が集まって完成させたこの計画は、国土の広大な地域からパレスチナ・アラブ人を組織的に追放・排除しユダヤ人が独占的に支配する国家を作る青写真です。いまも進行中の「民族浄化」の歯車がこの時、動き出したのです。


「ナクバ」への道


ナクバにいたるまでの経過をざっとおさらいしてみましょう。

「バルフォア宣言」が「パレスチナ」問題の火種になったことはよく知られています。第一次大戦を戦うにあたりユダヤ人の協力を得ようというもくろみで1917年に英国によるシオニストに支援の表明です。パレスチナの地に民族郷土(ナショナル・ホーム)を建設する計画を支援すると約束したのです。

その頃、パレスチナはオスマントルコの支配下にありました。イギリスの領土ですらありません。自分の領土でもない場所、しかも現にそこに住んでいるパレスチナ・アラブ人に相談したわけでもありません。

しかし、この身勝手な約束を機に、19世紀末から始まっていたシオニスト運動は、当初は現地住民を低賃金で働かせて搾取するというそれまでの西欧の植民地主義に沿った形を取っていました。それが「約束の地、パレスチナにユダヤ人だけの国を作る」というビジョンの下、現地にいる住民を排除して自分たちだけの新しい国を作るという方向に収斂していきます。危険な夢が崇高な実現目標に変身していったのです。


第1次大戦後が終わり英国の統治下になったパレスチナでシオニストたちの建国への歩みは着々と進められていきました。まずは、土地の確保です。やって来るユダヤ人移民に貸し与える土地を買い求めるため、すでに1901年には「ユダヤ国民基金」が設立されていました。パレスチナの小作農たちは、長い歴史の中で領主や地主が変わることに慣れていました。たとえ、地主が変わっても実際に農地の耕作に携わる農民が追い出されることはまず、なかったのです。ところが、今回は違いました。ユダヤ国民基金による土地の購入は、その地で先祖代々暮らしてきた人たちの追い出しを意味するようになったのです。

「土地なき民に民なき土地を」がシオニズムのキャッチフレーズでしたが、実際には「民なき土地」ではなかったのです。もめごとが起きると自警が必要とされ、英国統治下、ユダヤ移民の軍事組織「ハガナ」が生まれ、後にイスラエル国防軍に発展しました。

1931年には、ハガナから過激派民兵組織イルグンが、1940年にはイルグンからシュテルン・ギャング(レヒ)が分派し、パレスチナ・アラブ人に対してはもちろん、ユダヤ移民の数を制限しようと試みた英国までも敵とみなし、テロ攻撃を仕掛けるようになっていきます。

偵察も重要な戦略でした。アラブの村に出入りできる道、水源の場所、村の主要な収入源、果樹の本数、男たちの人数と年齢、村人の中でシオニストに敵対的なのは誰か、アラブの反乱に加わった人物がいるか―詳細にわたる情報をを年月をかけて集めました。もっともらしい理由をつけて情報屋が送り込まれました。パレスチナの村人たちは客人への歓待で知られています。客として迎えられれば、偵察はいとも簡単でした。こうして集められていた情報が、後に村への襲撃、村人の処刑の手引きになりました。

ユダヤ移民の増加に脅威を覚えたアラブ人が独立をめざし反乱を起こすと、英国軍の訓練を受けていたハガナが英国軍と合同して鎮圧にあたりました。しかし、流血をも辞さない過激派シオニストにあおられたユダヤ・テロ組織によるテロ攻撃の対象とされ、激化するアラブとユダヤの内紛の収拾にさじを投げた英国は、後始末を国連にゆだね責任を放棄したのです。


あまりにも不公平だった国連によるパレスチナ分割案


さて、英国から下駄を預けられた国連で解決策を仕切ったのは、第2次大戦後、国際舞台の大立て者となった米国でした。米国が参加各国を脅しや支援で強引に説得し、1947年11月29日にパレスチナ分割案(決議181号)が可決されましたが、アラブ人(パレスチナ人)にとってはとてつもなく不公平な案でした。

当時、パレスチナにいるユダヤ入植者の人口は全人口の3分の1、所有していた土地も全土の6%にすぎなかったのですが、この分割案で52%の土地を手にするとされました。アラブ側が喜んで承諾するはずもなく、戦争への道が開かれたのです。

リフタ襲撃が起きたのは、それからまもなく。12月28日のことでした。その頃、エルサレムの西はずれにあるガソリンスタンドの持ち主が村人たちをけしかけてユダヤ人のバスを射撃する計画を立てているという噂が流れました。この人物がリフタ出身だったため、バス襲撃に何の関係もしていなかったリフタの村に火の粉がふりかかるはめになりました。

その日、機関銃を手にした「シュテルン・ギャング」のメンバーが突然、村のコーヒーハウスに現れてバス襲撃計画への見せしめと称して村人6人を殺害しました。さしたる武器ももたない多くの村人が怯えて逃げ出したことに味をしめ、1月になると今度はハガナがやって来て爆破や焼き討ちを行ないました。リフタ襲撃はこの頃からパレスチナ各地で始まるアラブの村への襲撃の先例になったのです。


2度と戻れない逃避行


高台から村に入る急な坂道を降りていくと、平坦な小道にぶつかります。道の両側に立つ木立の葉むらから木漏れ陽が落ち、歩けば自分の足音だけが聞こえる静けさの中で、この日、私たちを案内してくれたウマールさんが、教えてくれました。「70年前、村の人たちはこの道を通って逃げたんです」。一瞬、過去がよみがえり、必死で逃げる人の吐く息が聞こえる気がしました。

村人たちは、一時的な避難のつもりでいました。2度と帰ってこられないとは思っていなかったのです。

しかし、排除は計画にそって行われました。どこの村でもイスラエルの兵士たちは、羊や牛を追うかのように、人々を包囲し、逃げられる方向をひとつだけ開けておきました。こうして、イスラエルが領土として取る予定地域の外へと追い立てて行ったのです。銃をつきつけられ、ヨルダンやレバノンなど隣国に追い出された難民も大勢出ました。

リフタの場合、多くの人々いまもは周辺の地域社会で暮らしているにもかかわらず、イスラエル当局が彼らの帰還を拒絶しています。


からっぽになった村


1948年2月末頃までにはリフタの村から人影が消えました。それでも、帰れるという希望を棄てきれず、しばらくは交代でこっそり泊まりに来た人たちもいたと言います。その願いにとどめを刺したのは、4月にディル・ヤーシーン村で起きた虐殺でした。

ユダヤ人とアラブ連盟軍との間で2月に始まった戦争にも関わらず、ディル・ヤーシーンの村人は中立を表明し、アラブ解放軍の駐留さえ認めていませんでした。しかし、ハガナはそんな村にシュテルン・ギャングとイルグンを送りこみ、虐殺とレイプが繰り広げられたのです。

ハガナは残虐行為を隠すどころか、むしろ過大に宣伝しました。恐怖が大きれば大きいほど、パレスチナ人追い出しの効果があがるからです。

村の襲撃を命じられ兵士は、後に作戦をこう説明しています。「村にはいったら、村人全員を集め、目の前で男女の若者4~5人を殺すんだ。そうすれば、皆、逃げていく」。3月にD計画の実行が開始されてから半年がたつと、パレスチナ・アラブ人口の半数以上にあたる80万人近くが避難民になっていました。531の村が破壊され、11の都市圏はからっぽになりました。

英国統治時代、反乱を起こしたアラブ人指導者たちは徹底的に取り締まられ、長らく海外追放にされており、パレスチナのアラブ人たちは指導者も武器も欠いていました。頼るべき近隣諸国のアラブ連盟は連盟内の覇権を巡って競い合い、戦後手にする利権への思惑もあって足並みがそろいませんでした。英国の訓練を受け、5月に撤退した英国が遺した兵器も手にいれ、士気に燃えたイスラエル軍の前にアラブ軍は精彩を欠きました。

かくして1949年に戦争が終わりグリーンラインと呼ばれる国境線が引かれた時、ユダヤ側は、1947年の国連分割案に勝るパレスチナ全土の77%を手にしたのです。


怨念を抱く家


跡形もなく破壊された村がほとんどの中で、リフタには54戸が残りました。イスラエルは、これを没収し、戦後、イエメンやクルディスタンなどからやって来たユダヤ人移民の住居に当てました。しかし、どんなに広々としていても、新しい住人にはなんとも居心地の悪い家でした。

ユーゴスラビアから来たある移民は、こう書き残しています。「この家には住めない。夜のとばりが降りるごとに、前の住人が窓の外に立ちすくんでいる気配を感じる。あばらやでいい。自分の手で建てた自分の家に住みたい」と。


やがてこの移民たちが自らの住まいを見つけて去って行き、リフタの石の家は再びからっぽになり、ドラッグのリハビリセンターやアーティストのコロニー、ホームレスの仮のすみかなどに使われました。遺された家をのぞいてみると、アーチ型の屋根のてっぺんには必ず、穴が開いています。

村の家の多くには、石を半球状に積み上げていくアーチ型の屋根が乗っています。このアーチの頂上に穴をうがつことは、微妙なバランスで保たれている屋根の構造に致命的な傷を与えることを意味します。いますぐ倒れなくても、いつかは崩れる。崩壊のタネが仕込まれているのです。

空がのぞける屋根の穴、そこから暗い地面に落ちてく地面に差し込む穴の形の光は、イスラエルがパレスチナの村に遺した執念深い悪意そして、時を味方につけた権力の刻印なのです。



2000年代になってから、この地域を再開発する計画が浮上したことがありました。朽ちた建物をロマンティックな景観に取り入れて、エルサレム郊外の緑の中に文化の薫り高い高級住宅地を誕生させようという、なかなかおいしそうなプランです。ホテルや学校、シナゴーグ、駐車場、商業エリアの建設まで備えた大がかりな企画でした。もちろん、パレスチナ人は入居できません。イスラエルによるアラブの村の破壊のことなど、おくびにもだしません。美しくも希少な廃墟を美しい芸術作品ででもあるかのように消費できる特権をアピールするイメージ戦略になるはずでした。

この計画がつぶしたのは、イスラエルの市民運動の快挙でした。リフタ村の住人だったパレスチナ人はもちろん、パレスチナ人と連携するイスラエルの人権アクティビスト、さらにはパレスチナの石工のすばらしい技術がうかがえる希少な建造物に魅せられ保存を主張する建築家などが協力して訴訟を起こし、勝利を手にしたのです。



記憶を奪う試み


「世界に離散するユダヤ人が荒野のパレスチナに結集し、自らの手で土地を耕し、ゼロから国家を作った」―これが、イスラエルの教科書に書かれる建国の歴史です。破壊の記憶は闇に葬られ、「ナクバ」という言葉、パレスチナ側の歴史を口にすることは、長らくタブーとされていました。

そんなしめつけがようやくゆるんだと思いきや、2011年には揺れ戻しが起きる中、国会で「ナクバ法」が制定されてしまいます。

この法は、政府の資金援助を受ける団体にナクバに関する活動、たとえば、建国記念日に「ナクバ」にちなんでパレスチナ人の民族の悲劇を追悼する勉強会を開いたり破壊された村を訪問したり、デモを行うなどの活動を禁じました。違反すると支援金の停止や罰金などが課されます。学校などの教育機関、市町村役場、文化施設、図書館、コミュニティセンターなどの公共機関、市民団体、NGOなどの口を封じ、国民の記憶を操作し建国神話を押しつけ続けようとする試みです。



On the Side of the Road - OFFICIAL TRAILER from Naretiv Productions on Vimeo.
このドキュメンタリーのディレクター、リア・タラチャンスキーはロシア生まれ。ウェストバンクの入植地に移住して育ちましたが、パレスチナ・アラブ人と知り合いになるチャンスはまったくありませんでした。後にカナダに移住してからパレスチナ人の知り合いも出来、自分が教えられてきた歴史とはまったく異なる出来事や現状を知って、唖然としたと言います。独立系メディアのジャーナリストになって、イスラエルに戻った彼女は、村人の追い出しの任を負わされた元イスラエル兵士の証言などを得て、ナクバの跡をたどっていきます。

しかし、希望を与えてくれるのは、そんな理不尽な国の動きに屈服しない市民たちの存在です。リフタで私たちを案内してくれたウマールさんが所属するゾクロット(Zochrot)は、ナクバについての知識を市民に伝える活動を行っている団体です。歴史の真実を認め不正をただすことにしか、この地で民族の違いを超え共存できる未来はない、平和は生まれないと信じているからです。

リア・タラチャンスキー監督の話題作On the Side of the Road (『道のかたわらに』)に、ゾクロットの活動の一端を紹介する場面が登場します。

建国記念日、祝祭が繰り広げられる街に出てナクバに関する資料を配付しようとするゾクロットの計画を聞きつけて、警官隊が事務所前に押し寄せます。それでも外に出ようとすると、騒ぎを聞いて集まってきた「愛国者」たちがネトウヨ顔負けの憎しみを吐き散らしまくります。日本でもイスラエルでも、記憶を消したい国と歩みを共にする人たちは憎悪に満ち満ち、人を傷つけることにあふれんばかりの情熱を燃やすようなのです。リフタのあちこちに書かれていた、「アラブ人に死を」という落書きのように。


「僕は入植者だった」


村を歩いていたとき、声をかけてきた人がいました。エルサレムに住むというその人は、言いました「この村の野生のスパイスや果物の匂いがたまらなく恋しくなって、時々、来るんだ」。ナクバを直接体験した世代ではなさそうでしたが、親や親しい誰かの記憶を受け継いでいるらしいのです。

私たちの旅のリーダーだったシドニーは、ユダヤ系アメリカ人ですが、かつてエルサレムで暮らしたこともあります。その彼が今回のリフタ訪問の後、こんな文章を書きました。

「僕は7年間、エルサレムで暮らしたことがある。7年間、僕は入植者だった。だけど、そのことに気づいてすらいなかった。その7年間、ヘブライ大学の学生寮の向かいにあるパレスチナ人のキオスクでファラフェル・サンドイッチを買ってよく食べたものだ。でもその間ずっと、自分が住んでいる土地が他の誰かの土地だなんて、一度も考えたことはなかった。ファラフェルを売ってるおやじがどこから来たのかなんて、今日の今日まで気にかけてもいなかった。でも、いまでは、彼のことが少しわかるようになった。あの人の家は、リフタにあったんだ。エルサレムのあの地区に固まって住んでいた、ほかの数百人たちがそうだったように。ファラフェルの屋台から、彼が以前住んでいたリフタの家までは軽く歩いていける距離だった。でも、家に戻ることは許されなかった。土地も財産も過去も奪われ、彼の歴史は消し去られた。以前の彼は消滅し、そこらのファラフェル屋になったんだ。知らないですませてはいけない。何の問題もないというふりをするのは、もうやめだ。目をそらしてはいけない」。

2017©Hideko Otake



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